たかはし耳鼻科クリニックHP

        咽頭癌

= 咽頭癌 =

 咽頭とはノドのことである。
ノドは上咽頭、中咽頭、下咽頭の3部位に分かれ、それぞれ特徴がある癌ができる。

= 上咽頭癌 =

上咽頭は鼻腔のつきあたりから上顎の線まで。ここにできた癌は放射線治療が主体となる。

放射線治療にもかかわらず再発した場合に手術をする場合があるが、治療成績は非常に悪い。

上咽頭癌の症状はさまざまだが、耳と鼻をつなぐ耳管という管があるが、その管を癌が塞ぐので、耳がつまったような症状がでてくる。

リンパ節への転移が早いので、無症状で頸のリンパ節が腫れて、「頸が腫れた」という訴えで受診する患者さんが多い。
ここで必要なのは、頸のリンパ節が腫れた時には、癌のリンパ節転移を疑って、原因となる癌がないかどうか上咽頭を含めたノドを診ること。

そうしないでいきなり頸のリンパ節を手術すると、リンパの流れを変えることになり、変なところに転移する場合がある。

上咽頭癌は特殊な鏡やファイバーで上咽頭を診る事で診断は容易である。
上咽頭癌の発症原因は不明で、若い人でもなる。

人種差もあるようで、中国、台湾では非常に多く、日本人の胃癌や肺癌のように癌の中でポピュラーである。

 

 
思い出に残る患者さんの話

     Aさん(上咽頭癌 60代 男性)

Aさんは台湾の方である。「頸が腫れた。」と言って私の外来を訪れた。
耳鼻科の教科書には、よく、上咽頭癌の稿に、頸の腫れた台湾人の写真が載っているが、まさに教科書の写真そのもののような人が私の前に現れた。
直ぐに上咽頭を診た。そこに腫瘍があり、そこから癌細胞がでた。
私が癌研に勤めて初めて癌の診断をした患者さんとして記憶している。

 

 

     Bさん(上咽頭癌 20代 男性)

Bさんは九州の出身である。上咽頭癌で型通りの治療をした。

「地元に帰って再就職することにしたので紹介状を書いて欲しい。」

そこまではごく当たり前の治療でBさんのことは、以来20年弱、すっかり忘れていた。

10数年後、私は産経新聞の“がん電話相談”の頭頸部癌の担当をしていた。電話で相談を受け、その内容が新聞に載るというものだった。

その時は、息子の放射線治療の後遺症を心配する母親からのものだった。

お住まいは00市だという。そういえば00市に上咽頭癌の患者さんがいたな・・・。
急に思い出した。

「ひょっとして癌研で治療しませんでした。?」「そうです。」
「私はあの時の主治医です。」

放射線をかけると永久に唾液腺が萎縮して、口がかわく後遺症が残る。ひどい人は、外出の際、水筒を持ち歩く。

それを心配したお母さんからのご相談であった。
癌は治っても、
Bさんの病気との戦いは終わっていなかった。

 

 

     Cさん(上咽頭癌・20代 女性)

Cさんには一度もお会いしたことがない。
私が癌研に勤める前に彼女の治療は終わっている。それなのに上咽頭癌といえば、真っ先に彼女が浮かぶ。

私は癌研で上咽頭癌の担当をしていた。上咽頭癌は抗癌剤も良く効き、上咽頭癌に対する抗癌剤の使い方について研究していた。

カルテをだして調べると、生存者に彼女の名前があった。

彼女は上咽頭癌で放射線治療を受けているが、肺に転移がでてきた。
医者の常識として、癌が肺に転移したら末期癌でもう打つ術はない、とされていた。(今でも多くの病院はそうだろう。)

手術で肺の転移巣を切ることにした当時の部長もすごいと思うが、それを承諾した肺外科の部長もすごい!

後に聞いたら、肺外科の部長は言う。「治療成績は肺癌と変わらないんですよ。それに転移だから手術しないと決めたら、早期の肺癌かもしれないのに見逃してしまう。」

もし手術をしていなかったなら、彼女は、今頃、生きていなかっただろう。肺の腫瘍も上咽頭癌の転移だった。

 

 

 

= 中咽頭癌 =

 中咽頭は口の中の見えるところのノドである。手術をする場合が多いが、放射線治療が効く患者さんもいる。

中咽頭癌は、同時、異時に食道癌を合併することが多く、強いアルコールの多飲が原因として考えられている。
癌研では、治療開始時のみならず経過観察中も、食道癌の患者さんはノドを、中咽頭癌の患者さんは食道を、それぞれ診るようにしている。

扁桃にできる扁桃癌、ノドの後の壁にできる咽頭後壁癌、ノドチンコやそれに連なるヒダにできる軟口蓋癌、舌の付け根にできる舌根癌がある。

 

     Dさん・中咽頭癌 (40代 男性 )

Dさんは中咽頭全体がガチガチの癌だった。

D
さんの主治医になった頃の私は、自分の今後の生き方を考えて、非常に悩んでいた。
東京で生きていくのに疲れていたのも事実だった。
うつ状態だったといっても言い

医者の世界は非常に狭い世界だ。
特に北海道は狭い。私のように、大学の医局に入らず、研究もしないで(したがって医学博士号をとることもせず)、ひたすら患者さんを治すことだけに夢中になっているのは、癌研頭頸科の医局には珍しくなかったが、一般には稀である。
それでも東京なら医療技術を認めてくれて、博士号がなくても「講師で来ないか。」と言う話や大きい病院から「雇いたい」と言う話があった。

しかし、札幌は手術のできる病院は全てが大学の医局からの派遣で、私のような生き方をしている人間は働かしてもらえる病院がなかった。

家庭の事情で北海道に帰りたいと思ったが、まだ手術をやめたくないのも事実で、Dさんに会う前には札幌に相談にも行っている。

そんな時にDさんの手術をした。

当時の部長先生が「俺が20代の時は手術をさせてもらえなかったけれど、20代でこんなに手術をしている君たちは本能的に手が動くようになる」

Dさんの手術を最後に手術をやめようというぐらい落ち込んでいた私は、部長が「本能的に手が動く。」と言う意味がわかったような気がした。

自分の気持ちに正直に生きようと思い、東京に残ることにした。

 

 

 

     Eさん・扁桃癌(60代 男性 )

Eさんは東北の某町の出身である。
扁桃の癌は小さかったが頸部のリンパ節に転移した癌が巨大で頸の骨に広がっており手術不能なので放射線治療を行っていた。

私が癌研に勤め始めた年、まさか諸先輩に年末年始の当直をやってもらうのも悪いので、一番新人で独身の私が当直をやることにした。

12月31日、世間は大晦日でも、病院には帰れない人がいる。
外泊する人で静かになった病棟で、帰れなかった状態の悪い患者さんを診て、そばを食べて(大晦日には当直しているスタッフに年越しそばがでる。)、紅白歌合戦を見ていると、当直室の電話が鳴った。「
Eさんが出血です。すぐ来て下さい。」

当直の看護婦さんも“新人で今日の当直は大丈夫かな?”と、さぞかし不安なことと思うが、出血なら主治医に連絡しても間に合わない。すぐに病室に駆けつける。

そこには口のまわりを血だらけにして、さっき廊下ですれちがったEさんがベッドに横たわっている。
口からドンドン血があふれてくる。

私にできることは口の中にガーゼを詰めることしかない。
幸い、
Eさんは気管切開されていて、いくら詰めても窒息することはない。
人間の口の中にはこんなにもガーゼが入るのか?と思うほど詰め込んだ。
さしもの大出血も止まり落ち着いた時には、次の年になっていた。

元旦の午後、寝ていると当直を代わった先輩から電話があった。
私が無事で当直をやっているかどうか心配で病棟に電話したらしい。
そこで
Eさんのことを聞いた。さっそく、主治医に連絡してくれて、主治医がこれから行って、出血した動脈を縛ると。

正月休み明けから始まった放射線治療と抗癌剤が思いのほか良く効いて、Eさんは気管切開も閉じることができ東北に帰っていった。

翌年の夏、Eさんに手紙をいただいた。

「今は仕事もやめて、毎日のように故郷の川で魚釣りをしています。
帰れるとは思っていませんでした。あの時、口の中にむりやりガーゼを詰めこまれる中、自分はこれで死ぬんだな・・。と思ってました」 こんな内容だと記憶している。

そういえば、あの時、夢中で「家族を呼んで。」と言って、看護婦さんは「連絡がついた。」と言っていたが、まさか東北だったとは・・・。私は会っていないし、すっかりそのことを忘れていたが、家族は東北から大晦日の夜に癌研に向かったのだろうか?

その後、Eさんからの連絡はない。

 

 

 

     Fさん・中咽頭癌(50代 男性)

Fさんも主治医ではない。しかし、ひょんなことから忘れられない患者さんになった。

Fさんは、東北地方の00市の出身で身寄りがない。手術をしたが、残念ながら、転移がでてきた。

他の患者さんのことでFさんの病室へ行くと、Fさんが窓から空を見上げていた。

ポツンとFさんが「00市に帰りたいな〜。」その言葉が妙に今も耳に残っている。

一時、誰かがついて帰る話もあったが、その後、具合が悪くなり、結局00市に帰ることなく、Fさんは亡くなった。

00市には大きな総合病院がある。月に一度、そこへ私達の医局から一人出かけ、耳鼻科の癌の患者さんを診察したり手術をしたりしていた。私も次月から行くことになっていた。00市に行くことは、一人前として認めてもらったようでうれしい。

「高橋先生、今度00市に行くんだって?耳鼻科の先生が駅に出迎えてくれるから、Fさんのお骨持ってって。その先生の実家がお寺で、そこに奉ってくれると。」 

そのお骨がまた重い。二重の瀬戸物の壷に入っていて紙袋の中にある。電車を乗り継いで〇〇市に行ったが、電車の網棚に置いて、落ちてきても困るから、ずっと膝の上に抱えていた。

初めて行った〇〇市の駅前は暗かった。電気があまりない。

そこで待っているはずの先生がいない。携帯に電話をすると「今日は病棟の飲み会で夜は遅くなる。必ずホテルへ行くから、それまで待っていてください。」とのことで、ホテルまでの道を教えてくれた。

ホテルまでの暗い道を、骨壷を抱いて歩いた。「道を間違ったかな?」と思う頃、ホテルが見えてきた。

ホテルのベッドに骨壷を置いて、その傍に横になった。

Fさんが帰りたかった〇〇市に帰ってきた。」 ベッドでビ−ルを呑んだ。

 

 

 

=下咽頭癌・頚部食道癌=

下咽頭は喉頭の裏側、食道の上にあたる。頚部食道は頸の部位の食道である。

下咽頭癌の症状は多彩である。近くに喉頭があるので、喉頭癌のように声がれで気づくこともある。
のどの奥の持続する痛みや違和感で受診されることもある。
食事がつかえることもある。
のどは全く無症状だが、頸のリンパ節が腫れて,下咽頭の癌が見つかることもある。

喉頭癌は癌が小さいうちに声がかれてくることが多く、早期に発見されて放射線治療で簡単に治ってしまうこともあるが、下咽頭癌は癌が大きくなるまで症状がでないことが多い。
治療は手術になることが多いが、喉頭が近いので喉頭をとることが多く、永久に失声になってしまう。
食事は腸を移植して食道の代わりを作るのが一般的である。

下咽頭癌・食道癌の誘因としてお酒の関与が考えられている。
癌研は東京の下町と言われる、荒川区、足立区、墨田区、台東区、が周辺にあり、そこにはアルコールを多飲している人が多い。(それらの区の人。ごめんなさい。)
癌研を受診する下咽頭癌の患者さんはそれらの区の人で、しかも、中年以降の独身の男性が非常に多い。

縁がなくて独身なのではない。
お酒におぼれて奥さんや子供に見放された人である。
勿論、下咽頭癌の患者さんの名誉のために言っておくと、お酒やタバコをやらない品行方正な人も下咽頭癌にはなる。
統計的な話である。

 

 

 

     aさん( 下咽頭癌・40代 男性)

aさんは、最近、のどの奥に鈍い痛みを感じるようになった。
近くの内科へ行ったら「風邪です。」と言われて、抗生物質と風邪薬と痛み止めをだされた。
それでも、痛みは続いた。
しばらく様子を見たが痛みは同じだった。
今度は耳鼻科へ行ってみた。
また、「風邪です。」と言われ、抗生物質をだされた。
痛みは相変わらず続き、ある日、彼は頸のリンパ節が腫れていることに気がついた。
頸のリンパ節はどんどん大きくなっていく。

私の外来に来た時、頸のリンパ節は大きく、下咽頭に小さな癌があった。
手術は上手くいったが、残念ながら、肺転移で死亡した。

 aさんのような話は珍しいことではない。持続するノドの痛みは、要注意である。

 

 

 

     bさん(下咽頭癌・50代 男性 )

彼は医者の側から見ると実に運が良い。
癌研を初診した時、下咽頭の癌および頸のリンパ節ともに進行していて手術不能の状態だった。
しかたがないので放射線をかけた。

放射線治療が終わってまもなく、彼は癌研に来なくなった。

てっきり亡くなったものと思っていたが、2年ほどしたある日、外来にひょっこりあらわれた。
下咽頭の癌や頸の癌はすっかり消えていた。

 肺のレントゲン写真を見ると、3ヶの転移がある。
肺の極狭い範囲にあり、他にも転移
がないので、肺を切除した。
それからは真面目に通院している。

2年後、大腸癌が見つかり手術した。それから10年程たった。

彼は病院に来ると治療によって生じた後遺症の文句ばかり言っていく。

「頸や肩が硬くて痛い。胸の古傷が痛む。・・・」

彼は自分の幸運を知らない。今も外来で文句を言っているのだろう

 

 

 

     cさん (頸部食道癌・50代 女性 )

友人の医者に相談された。知人の勤める病院に彼女は入院している。

手術ができるかどうか、相談を受けた。
頸部食道の癌はすごいが、リンパ節への転移はなく、手術で癌は取りきれる可能性は十分だ。

手術は特に問題はなかった。
手術3週間後、食道の代わりに移植した腸が上手くつながっているかどうか検査をする。
これも問題がない。

「今日から何を食べてもいいですよ。」

長らく、口から物を食べていない彼女は、夕食まで待てなかったようだ。

さっそく売店へいって食べ物を仕入れてきた彼女は、それらをナース ステーションの前の患者さんの休憩所のソファーの上に並べて、一つづつ、食べては私の方を見て、微笑む。
シュークリーム、饅頭,お寿司、アイスクリーム、ケーキ、バナナ、・・・・。 

 

 

 

     dさん (下咽頭癌 50代 女性 )

dさんは東北の出身で、東京に出てきて生涯独身で生きてきた。
50歳を超えた時、下咽頭癌になった。
喉頭もとったので、言葉がしゃべれない。
言語機能を失ったので、生活保護で生きることにした。
アパートも癌研の傍に変えた。

仲の良い兄弟がいて、彼女のことを心配して私と何度かお話したことがあるが、皆、数年のうちに急死してしまった。彼女は一人になってしまった。

ある日、豊島区役所の福祉課から電話がきた。
彼女がアパートで倒れているところを見つかった。幸い、一命は取り留めた、と。

 夏の暑い日、おそらくは脱水症状と思われるが、体調を崩して動けなくなった。
生活保護を受けている人は、クーラーをつけることは、贅沢として、認められていない。

札幌の冬に、贅沢だからストーブはつけてはいけないと言われているようなものだ。

食材はすぐに底をついた。かといって買い物にも行けない。話せないので電話もない。

飲まず食わずで数日いたところを区役所のヘルパーさんに発見された。

丁度、私のアパートから癌研への途中に彼女のアパートがあったので、私も、時々、彼女の生存を確認のために、彼女のアパートを訪ねることにした。

彼女は今どうしているのだろう。?

 

 

 

     eさん (頸部食道癌 50代 女性 )

彼女は口腔癌で以前に手術を受けている。
今度は頸部食道癌になった。手術は特に問題がなかった。彼女は術後も順調で退院していった。

最初の外来受診日、入院中はあんなに元気だった彼女が元気がない。

喉頭をとっているので、筆談で「苦しいんです。先生、私を助けてください。」

前述したが、私が00市で喉頭を摘出した患者さんがいた。

私が00市に行った時、その患者さんのことが気になって、「あの患者さんはどうなりましたか。?」と、主治医に聞いたら、「何事もなく退院したけど、直後に自殺しました。」

その話を癌研の先輩の先生に話したら「患者さんは自分は癌だから喉頭をとられて話せなくなることはしかたがないと手術の前には覚悟していても、実際に手術でとられて声がでなくなると、元には戻れないことにショックを受け必ず強いうつになる。」と話していたことを思い出した。

eさんに抗うつ剤を処方した。

次に外来に来た時、そこには以前の元気な彼女がいた。

「おかげさまで楽になりました。」

それからしばらくして、彼女の方から「抗うつ剤はなくても大丈夫」と言ってきた。

 

 

 

 

     fさん (下咽頭癌 70代 男性)

fさんは、私も顔を知っていた有名な作詞作曲家である。
有名人だから記憶に残っているのではない。
「自分はそう長くはない。」と自覚していながら曲作りに励む彼の姿に感動したのだ。

彼の下咽頭癌は小さく、よく見ないとわからないほどだった。
頸のリンパ節が腫れて見つかった。
下咽頭の一部を切除して声は残し、頸部のリンパ節郭静術を行った。

残念ながら、胸から肩の皮膚に転移がでてきて、末期癌の状態になった。

最期はさぞかし痛くて辛かったと思うが、彼は痛み止めを使おうとはしなかった。

彼の中では“癌の痛み止め=麻薬”
麻薬は思考をにぶらせて曲作りには不要という,信念にも似たものがあり、最後まで絶対に求めなかった。

苦しさの中で一つの曲を作り、やがて彼は意識を失った。

その曲は国民の名曲となり、昨年の紅白歌合戦でも歌われていた。

一度、「どのようにして曲ができるんですか?。」と聞いたことがある。

「寝ていても、急に頭の中にネズミがいっぱいでてきて騒ぐんです。そんな時、すぐに

起きてピアノに向かうんです。」我々、凡人には分からない世界だ。 

 

 

 

     gさん (頸部食道癌 20代 女性 )

「患者さんを一人診てくれませんか?」

独協医大にいた時、ある後輩に呼び止められた。
外来にいくと若い女性と食道のレントゲン写真があった。
レントゲンを見ると頸部食道の粘膜壁がわずかに不整だ。

「食道癌?」 
20代のこんな若い人の食道癌なんて癌研のカルテを調べた時もなかったし、医学雑誌の報告でも見たことがない。
でも、疑いは捨てられなかった。

ファイバーで見たがよく見えない。
そこで食道鏡を予約した。(食道鏡とは食道に鉄の管を入れて食道を直接見る検査法である。)

食道鏡で見ると、そこにはリッパな食道癌があった。
放射線をかけられるだけかけて手術をした。
幸いにも食道の外には出ていなかったので、喉頭は残した。
気管周囲や下頚部に転移と思われる硬いリンパ節があり、けして早期食道癌とは言えなかった。

残念ながら、転移で死亡した。まだ2歳ぐらいの女の子がおられた。

 

 

 

 

     hさん(下咽頭癌 40代 男性)

hさんはお酒が非常に好きだった。アル中と言ってもいい。

彼は妻と子供がいたが、愛想をつかされて離婚している。

手術をしたが、付き添い人はいない寂しいものだった。

残念ながら、全身に転移がでてきた。

そのご臨終は誰もいない寂しいものだった。

このような場合、役所の方で、無縁仏として埋葬してくれる。

hさんのことを忘れた頃、私の前に彼の別れた妻があらわれた。

hさんのような、アル中で家族に愛想をつかされるケースは下咽頭癌では珍しくない。

 

 

 

     iさん(下咽頭癌 50代 男性)

iさんはお酒と結婚したような人で、独身である。

下咽頭の癌は今にも空気の通り道を塞ぎそうに大きく、いきなり手術しても良いケースだが手術は拒否。
それなら入院して気管を切開して放射線をかけるよう言ったがそれも拒否。
「仕事が忙しい。だから、入院はできない。」

しかたがなく通院で放射線をかけていた。

ある真夜中、突然、電話が鳴り、
iさんが呼吸苦でこれから病院に来ると救急隊より連絡がありました。」

「だから言わないことじゃない。あんなに気管切開しないとだめだと言ったのに・・・。」

当時の私のアパートは癌研のすぐ横にあった。
東京のことが分からない私の代わりに部長が探してくれたものだが、初めて案内された時、「これじゃあ 毎日、当直しているようなものだなあ・・。」と思ったことを記憶している。

まもなく救急車のサイレンの音が病院の前で止まった。

「ついたな。」いつも身の引き締まる瞬間だ。

病棟の処置室に行くと、iさんは呼吸苦から暴れまわり、静止することも、横になることもできない。やむなく椅子に座らせ、看護婦さんに身体を抑えてもらって気管切開を行った。

死にそうになって、彼も「仕事が忙しい。」とは言っていられないことが分かったようだ。

それから素直に手術を受けた。

 

 

 

     jさん (下咽頭癌 30代 女性)

jさんとは、直接お話したことはない。
でも、私が国立札幌の放射線科医をやめて癌研に勉強に行くきっかけになった患者さんである。

癌研の先生がわざわざ札幌に来て、jさんの手術をして、我々に見せてくれた。私も見学にいった。 

頭頸部癌は放射線もよく効き興味のあるところだったが、癌研の先生の手術をしているのを見てからというもの、「自分も放射線と手術、トータルで頭頸部癌の治療をやってみたい。」という考えが強くなっていった。
jさんのことは、自分史としても記憶に残る。